大企業を辞めスタートアップを地方で起業する、逆張りキャリア|登壇者インタビュー(前編)
2021年6月24日に開催される、事業創造コミュニティカンファレンス「01 Community Conference」。注目のセッション「地方で創るスタートアップエコシステム」にモデレーターとして登壇予定の青木さんへお話をうかがいました。前後編の2回に分けてお届けする当インタビュー記事。前編の今回は、大企業を辞めて東京ではなく地方で起業するなど、青木さんの「逆張り」のキャリアについて振り返っていただきます。
プロフィール
目次
- 「俺、強え!」と思えることをやりたかった
- シリコンバレーでの出会いで『世界』を主語に
- 起業のタイミングは「風が吹いたとき」
- 辞めるつもりのなかった大企業「研修で見えてしまった3年後」
- 何もできなかった震災が原動力に
- 東北スタートアップとしての『奇跡の一本松』をめざして
「俺、強え!」と思えることをやりたかった
——起業のきっかけを教えてもらえますか?
青木さん:もともと起業というものに興味を持っていました。学生時代には海外行ったり、ボランティアしたり、みんないろいろチャレンジするじゃないですか。僕らのときは、「学生起業までやれば、学生で『すごい』って言われることを総なめできるぜ!」みたいな(笑)。「俺、強え!」と思えるようなことをやりたかったんです。最初はそういう感じで、起業というものに興味を持ちました。
実は1回、起業のまね事みたいなことをしていて、NPOの創業支援をしていたんですよ。そのときは全然楽しくなくて。別に誰に迷惑かかるものでもなかったので、当時のお客さんとの契約が終わった時、半年しないぐらいですぐ辞めてしまいました。
シリコンバレーでの出会いで『世界』を主語に
——その後の学生時代はどんなことをしていたのですか?
青木さん:時間が経って大学4年ぐらいのときに、お世話になっていた方が「シリコンバレーに行くんだけど、一緒に行きたいやついないか」とおっしゃっていて、僕も一緒にくっついて行くことにしました。
現地で活動されてる日本人の方や、起業家のミートアップを見に行って、そのとき初めてスタートアップというものに触れました。何かすごいかっこいいなと衝撃を受けたのを覚えています。
そしてその後、もう一度シリコンバレーに行っているのですが、その時は現地で西城さんという方に出会い、自分の考え方を大きく変える出来事がありました。
その方に「君は将来何がやりたいんだ?」と聞かれ、僕は「東北が〜〜」とか「日本が〜〜」という話をしました。ひとしきり聞き終わった後、西城さんにひとこと「君は『世界』を主語にするつもりはないか?」と言われ、自分の視座の低さを見せつけられました(笑)。
たしかに言われてみると、ミートアップに集まる起業家たちも「The world is..」とか「The world should be...」などと言っていて、「主語を世界にするってこういうことか…かっこいいな!」と感じました。そうやって、スタートアップは世界を変えるような事業をやるんだ、というイメージを持つにいたりました。
起業のタイミングは「風が吹いたとき」
——そこからスタートアップの起業をしたのですか?
青木さん:すぐ起業するかというと、そうではなかったです。起業するときは、そういう風が吹く(タイミングが来る)のではないかと思っていました。
(学生時代に起業の)まね事ですけど1回やってみて、面白くなかったからやめて。面白くなかった原因は1人でやったからではないかと考えていました。
きっと何かやりたいことがあるとき、起業するときっていうのは、誰かと一緒にやるんだろうなという気持ちで。別に何か強烈にやりたかったことがあったわけでもないし、一旦起業という選択にはふたしておこうと思いました。
——起業せずに、まずは就活して新卒入社されたのですね?
青木さん:はい。先程の西城さんが日系大手メーカーで働いていたこともあり、日本に帰国して、名前が思いつく限りのメーカーにエントリーシートを送るみたいなことをしました。それで大手電機メーカーに採用いただき、新卒入社することになりました。
辞めるつもりのなかった大企業「研修で見えてしまった3年後」
——大企業を辞めるまでの経緯を教えてもらえますか?
大企業の仕事って、最初はそんなに難易度は高くなくて、言い方を選ばずにいうと、面白くないこともあると思います。それは覚悟の上で「最初の1年だけだ。最初の1年だけ我慢すれば、面白い仕事ができる」と考えていました。
そういう考えだった時期に、中学高校時代の同級生で、自分で会社をやっている友人とよく飲みに行ってたんです。「お前、会社やれよ」と言われてたんですけど、そのタイミングでは「やらんやらん」と、ずっと断ってて。「いや、俺はいい会社入ったからもうちょっと頑張るんだ」みたいなことを言っていました。
しかしその後、新卒入社半年後くらいの研修で、1〜3年後のキャリアビジョンを書いていて、雷に打たれたような衝撃を受けたんです。「3年後でこれしか成長しないのか」と。周りに言われた「これをやるには、これぐらいの年数がかかる」という言葉に合わせてしまっていたと気づき、「自分はここにいちゃダメかもしれない」と思いました
研修の最後にあった振り返りの時間で「人生変わりました」と僕が言うと、周りからは「おー!」とか言われたんですけど、「いや、きっと皆が想像している人生の変わり方とは違うぞ」と思っていました(笑)。
何もできなかった震災が原動力に
——東京にいたにもかかわらず、なぜ仙台で起業したのでしょうか?
青木さん:仙台は大学と大学院の計6年間いたわけですが、いろんな人にお世話になったというのが大きなポイントの1つです。学生時代から培ったネットワークというか、ネットワークっていうとかっこいいですけど、どうしてもお金のないときにご飯をおごってもらったとかそういうのがたくさんあって。
当時の仙台(2019年頃)は、スタートアップを輩出していきこうという機運は盛り上がっていたものの、実際に手を挙げる人がいない状況でした。起業家が不在な中でサポーターばかりが頑張っているように見えて、「仙台、頑張ってるけど、なんかイケてないな」と思っていました。
そう思いながら、仙台で起業しようか、東京で起業しようか悩んでる自分がいるんです。東京で即決すればいいのに。なんでだろうって思っていたあるとき、うち(株式会社funky jump)の共同創業者が、一緒にラーメンを食べに行く約束したのに40分も遅れてきて、待っている間にそのことを考えていたんですね。
そのときに僕は、東日本大震災のときに何もできなかったという想いが自分の中ですごく引っかかっていることや、それをいつかどこかで解消したいんだ、すっきりしたいんだと思っていることに気づいたんです。そのことに気づいて号泣してしまっていたところ、やっと到着した共同創業者が「何事か」と、しどろもどろしていました。思い出のラーメンです(笑)。
あの震災のとき、私は大学1年生でボランティアに参加しました。行くところ行くところに「震災翌日ぐらいからボランティアしてます」という人たちが結構いて、「あいつらすごいな、それに比べてなんとか仙台を脱出しなければと考えていた自分ときたら…」という思いがありました。
当時の僕は、議員事務所へ大学生をインターン生として紹介して、政治に興味を持ってもらうという活動を「ドットジェイピー」というNPOで行っていました。「実際に働く議員の身近で、インターンとして政治を体感する機会を提供できる」というこの活動には、とても大きな価値があると考えていました。
活動をする中で、インターンへの参加者数を震災前の水準に戻したり、NPOの内部でMVPを獲得したりしましたが、それが東北という地に何かしらのインパクトがあったかというと、あまり大きくないようにも感じました。
「かわいそうな東北」みたいに言われるのがすごくムカついて、「現場で今、歯を食いしばって頑張ってる人たちがいる中で、何だ『かわいそう』って…」と。そういう気持ちがあったんです。でもその気持ちをNPOの活動では多分、消化しきれなくて。「震災で東北なんて終わるんだ」みたいなことを言われたりしても、「ふざけんな」と思うんですけど、何も言い返せない。
そういう悔しさとかが強く残っていました。だから仙台を拠点とすることになりました。
東北スタートアップとしての『奇跡の一本松』をめざして
——今後の目標を教えてください。
目標ですね、実は最近やっと言語化できました(笑)。
陸前高田市という街があります。津波で街全体が流されてしまった街で、ここには「奇跡の一本松」と呼ばれている松があります。津波で流されずに一本だけ立っていた木です。この松がそのままだと枯死して倒れてしまうため、税金で1億5千万円かけて残そうという取り組みがありました。
当時は「そのお金使って、もっと復興活動に充てたらどうか」という批判もありましたが、「これは見に行かなきゃ何も言えないな」と思って見に行ったら、涙が止まらなくなってしまって。その街の中で立ってるものが松しかないんですよ。あとは全部流されてしまった。これがなかったら、ここで町をもう一度作ろうと誰も思わない、と感じました。この松にはどれだけお金をかけてでも、立っていてもらう価値があるんだ、ここに立っていなきゃいけないものだ、そう感じました。
この一本松の姿に、僕はfunky jumpが実現する未来を見ました。TAISYという事業を通じて、東北にとっての奇跡の一本松になるという未来です。
「東北エリアで起業なんかしたってしかたない、東京でやったほういい」という話はある程度はそのとおりだと思います。
でも、僕がここ東北でスタートアップとして活動する、めちゃくちゃ盛り上がって大きな会社を作る。海外進出しちゃうぞ、なんてバーンと大きくなったら、僕の後に『街』を作ろうとするやつがいるんじゃないか?と、そういう想いで事業に取り組んでいます。
奇跡の一本松があればこそ、街をもう1度作り直そう、ここで新しいチャレンジをしよう。そう思ってもらえると信じています。
青木さんご登壇セッション「地方で創るスタートアップエコシステム」
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インタビュー後編では「現役コミュニティマネージャ兼コワーキング支援SaaS起業家が語る、よいコミュニティとは」と題して、青木さんにコミュニティについてお話を伺います。
参考:青木さんのnoteの記事「パンドラの箱の底。最後に残った希望。」